赤玉の歴史

赤玉神教丸の歴史

中山道を中心とした歴史は、有川製薬・赤玉神教丸を語る上でたくさんの文化が残されています。
当時の看板や明治天皇鳥居本御小休所・家屋は滋賀県指定文化財・国指定重要文化財となりました。
お近くにお越しの際、また歴史にご興味のある方はぜひ足を運んで歴史に想いを馳せてみてはいかがでしょうか?

彦根市合併50周年記念『鳥居本–歴史と文化のものがたり–』より

近江名所図会「赤玉神教丸本舗」鳥居本宿有川市郎兵衛家の神教丸は、腹痛、食傷、下痢止めの妙薬として有名で、350年以上の歴史を誇っています。
創業は万治元年(1658)と伝わり、お伊勢七度、熊野へ三度、お多賀さんには月詣り」とうたわれた多賀神社の神教によって調製したことが始まりといわれ、このことから「神教丸」という名がついたといいます。

多賀の坊宮がっ全国を巡回して多賀参りを勧誘する際、神薬として各地に持ち歩いたのでしょう。

有川家の先祖は磯野丹波守(いそのたんばのかみ)に仕えた郷士で、鳥居本に居を構えたころは、鵜川氏を名乗っていましたが、有栖川宮家への出入りを許された事が縁で、「有川」の姓になりました。

神教丸は胡椒・胡黄蓮・苦参・楊梅皮の配剤に寒晒米の溶汁や木胡桃油を調合して製造し、20粒入りを一服として販売されました。

有川家では、『近江名所図会』に見られるような店舗販売を主に行い、配置売りなどの行商の形態をとらなかったので、中山道を往来する旅行者が競って赤玉神教丸を求めました。
別の販売所としては、享保15年(1730)に大津髭茶屋町に出店しているのが唯一でした。

神教丸の評判が高まると、まがい物も登場しました。

『近江名所図会』では、有川家の店頭の様子とともに「此駅の名物神教丸、俗に鳥居本赤玉といふ。此店多し」と記されているように、「仙教丸」や「神吉丸」という類似した薬を販売していた業者がいた事を示しています。
有川家では、昭和3年(1766)以降に、類似薬販売差止め訴訟を起こします。その後昭和8年(1771)にも訴訟を起こしていますがそれでも手を変え品を変え、類似品が登場しました。その都度交渉をした有川家はいずれの場合も交渉に成功しています。

有川家本舗では、製薬に従事する職人、販売人、番頭を合わせるとその数は40人を超え、盛時には80人にも上ったといわれ、戦前までは国内は勿論、アメリカや中国にまで販路を持っていました。

現在の有川家

有川氏庭園・国指定文化財現在鳥居本の丸薬といえば神教丸を指しますが、江戸時代に彦根藩が編纂した『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』によると、小野村の「小野丸」や百々氏が製造を伝えた「百々丸」という丸薬が販売されていました。
有川家の建物は宝暦年間(1751~1764)に建てられ、明治11年の明治天皇北国巡幸の時には右手の別棟の建物に御少休されました。
また、有川家については、2012年、国指定重要文化財となっております。